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★ 南京大虐殺の真実          戻る

 この問題は終活の喉に刺さったとげでした。無かったと信じてはいたものの理論武装ができなく。この感想文を書くに至りました。

 南京大虐は東京裁判史観が原因で大虐殺があった事になっている。  日本の知識人たちの中に今なお占領政策の洗脳の影が色濃く残っている。と言うか、占領政策が形を変えて続いている証である。ニンジンをぶら下げられて 付いて行くようでは日本の未来はない・・・・
義務教育の場で子供たちに教えている事は見逃すことのできないことです。私たちの父親達が中国大陸において大虐殺を行う訳がない。中国文化、史記、論語、孔子、孟子など の教えを受け入れ風土にあわせて解釈し取り入れて日本人の精神構造の一部になっている。恩こそあれ憎しみは微塵もないと私は思っているし 義務教育の教科書は「らしい」などの表現で、現実にあったかの表現がされている。これは削除しなければならない。慰安婦問題も同様である。 これらすべては政治家の軟弱な姿勢がもたらすものである。「ノー」と言える日本はどこへ行った。

ウクライナ「戦争」という言葉を使うと、ウクライナに対する支援ができなくなる。国際法では支援をすれば、参戦国とみなされロシアから攻撃されても文句は言えない 。武器や金を支援するには「戦争」でなく「紛争」と呼ばなくてはならない。当時の日本は国際戦争法を守って何月何日に攻撃を開始するから民間人は避難して下しと声明を発表して 南京を攻撃しました。 もう一つ付け加えたい。「人種差別撤廃」を国際会議で提案したのは日本です。過半数の賛同を得ましたが、米国のルーヅベルト大統領当時議長 によって、重要事項だから全会一致でないという事で否決した。(ルーズベルトは日本が嫌いのようでした。黄色モンキー特に夫人の日本嫌いは有名でした。)

 南京大虐殺は、皆さんが愛してやまない理想の国アメリカがデッチ上げた大嘘です。なぜアメリカが東京裁判において「有る事無い事」を並べ立てて、 力と金に物を言わせ、巧みにメディアを誘導(ラジオ放送の真実の箱)し国民を洗脳して有罪をデッチ上げたのです。
日本大都市に対する無差別爆撃と日本人に対する原爆投下で30~50万人の民間人が犠牲になりました。これは明らかに戦争犯罪で、東京裁判で裁かれる事件です。 戦争犯罪行為です。この戦争犯罪を正当化する為に日本軍も何処かで大虐殺をやっているはずだと考え「南京大虐殺」「死の行進」がデッチ上げられました。 日本のメディアがGHQの権力に屈してしまったのが残念です。 終戦の混乱期にアメリカの手先になったメディアの個人を責めるのも酷でしょうが。抵抗の意思は残してほしかった。慰安婦問題も同じです。
「タアン死の行進」もデッチ上げで、死亡したのはマラリアに倒れた人たちで、鞭や銃剣で脅しながらの行進であったと記録されているが大嘘である。
会談
どちらが捕虜なのか分からない。
捕虜行進

南京城陥落:1938年12月13日日本軍整列入場。
 南京大虐殺のウソを暴く書物は多く販売されていますが、私が注目したのは近現代史研究家 水間政憲氏を中心です。 南京をはじめとして多くの写真(一次資料)を中心に、外国通信社の通信文などが紹介されています。 南京大虐殺の反論資料。国際的にも通用する「一次資料」を多く集められ、また著書の中に南京攻防戦当時の中国軍高官 (現米在住)から「南京大虐殺の真相を明らかにすることは漢民族の利益にならない」書簡の返事を受けた。と記されている。 ことから、アメリカがデッチ上げた南京大虐殺事件を利用して日本から搾り取るだけ搾り取ろうとする中国政府の意思を感じます。
以下、時系列に写真を列挙する。大虐殺が起こった形跡が見られない。
反蒋介石・反英などが映し出されている。
1937/11揚子江付近野良仕事を護衛

1937/8通州事件新聞
通州事件の新聞報道
南京城地図
1938/1南京入場
南京中山路を進撃する大野部隊
1938/1南京入場
南京整列入場12月13日

1939/1南京入場後
南京日本軍入場後三々五々集まってくる住民たち

1938/1北京民衆大会
南京陥落 二日後に天安門で五色旗と日の丸が翻っていた
1938/5城壁上に踏みとどまり捕虜となった中国女性兵士
女性兵士捕虜のふてぶてしい態度が日本軍の優しさが浸透していたことを物語っています。
1939/4天長節祝賀記念上海
1939/4陸軍記念日上海
1939/11広東女性たち
1939/2反蒋介石民衆大会
反蒋介石運動
1939/6反英デモ行進の様子
反英運動集会風景

国共内線で 米国はマーシャル将軍を派遣して反共を訴える蒋介石を抑えて毛沢東に支援を切り替え、中国を共産主義国家として設立させる。 毛沢東は日本軍を利用して勝利を収めたと言う事か??
毛沢東も鄧小平と同じく日本に感謝している。鄧小平の言葉
  「日本は中国を助けたことになっている。…… 日本が蔣介石を重慶まで押し下げてくれたので 我々は日本軍の占領地域の後方に広がった。…… 皆さんだけを責めるのは不公平だと思う。」(「 中国との友好交流二十年の感想」三岡健次郎・一九九五 年六月三十日・中国 政経 懇談 会)と語っていますが、たんに重慶まで押し下げたこと以外にも助けを受けたことを含んで いる のでしょ う。

  アジア諸国において大東亜戦争は歓迎・感謝されていた。

◆第1回バンドン会議で大歓迎された日本
もう1つ、筆者が今年1月に産経新聞の記事とし、その後加筆して産経のオピニオンサイト「iRONNA」に載せた「戦後70年落ち着いて歴史を語れる国に」を引用したい。
(---引用始め---)
「よく来たね!」
「日本のおかげだよ!」
日本代表団の団長、高碕達之助経済審議庁(のちの経済企画庁)長官ら一行は、独立したばかりのアジア、アフリカの新興国の代表たちから大歓迎され、相次いで温かい声をかけられた。 1955年4月、インドネシアのバンドンで開かれた第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議、A・A会議)での出来事である。 この会議は、第二次大戦後、欧米の植民地から独立したアジア・アフリカの29カ国の代表が一堂に会した国際会議である。 日本は招待状をもらった。占領が終わって国際社会に復帰して間もない時期の日本にとって、不安を抱えながらの参加だった。政府内には見送り論もあったほどだが、案に相違してうれしい歓迎を受けたのだ。 高碕代表に同行した加瀬俊一(としかず)代表代理(国連加盟後の初代国連大使)は生前の講演で、次のように振り返った。
「(各国代表からは)『日本が、大東亜宣言というものを出して、アジア民族の解放を戦争目的とした、その宣言がなかったら、あるいは日本がアジアのために犠牲を払って戦っていなかったら、我々は依然として、イギリスの植民地、オランダの植民地、フランスの植民地のままだった。日本が大きな犠牲を払ってアジア民族のために勇戦してくれたから、今日のアジアがある』ということだった。 この時は『大東亜宣言』を出してよかった、と思いました。我々が今日こうやって独立しました、といって『アジア・アフリカ民族独立を祝う会』というのがA・A会議の本来の目的だった。こんな会議が開けるのも、日本のお陰ですと、『やぁー、こっちへ来て下さい』、『いやぁ、今度は私のところへ来て下さい』といってね、大変なもて方だった。『やっぱり来てよかったなぁ』とそう思いました」。
その翌年、日本は晴れて国連に加盟して、私は初代国連大使になりました。アジア・アフリカ(A・A)グループが終始熱心に日本の加盟を支持した事実を強調したい。A・A諸国から大きな信頼と期待を寄せられて、戦後我が国は今日の繁栄を築いて来たのです」 これは1994年7月、京都外国語大学で加瀬氏が講演した話だ。『シリーズ日本人の誇り1 日本人はとても素敵だった』(揚素秋著、桜の花出版、2003年刊)の巻末に、同出版会長、山口春嶽氏が記した文章「シリーズ刊行にあたって」の中で記録されている。 本稿の筆者(榊原)は、加瀬氏の子息で外交評論家の加瀬英明氏にも、この講演の存在と内容を確認できた。講演は、バンドン会議出席者の貴重な証言である。 アジア・アフリカ各国の代表たちは、わずか10年前に終わった日本の戦争を、アジア独立に貢献したという文脈で語っていたのである。 バンドン会議には、白人国家は一国も招かれてはいない。旧連合国が、アジアを侵略した日本からアジアの人々を解放したという見方があるが、当時のアジア・アフリカの代表たちはそんな見方はしていなかったようだ。解放の役割を果たしたのは日本の方だったとみられていたと考えるのが自然である。
(---引用終り---)
加瀬俊一は、重光外相の秘書官として、重光とともに大東亜共同宣言の原案を書いた外交官である。 加瀬は著書(「あの時『昭和』が変わった101歳、最後の証言」光文社)でも次のように記した。 「対米戦争は自存自衛のために追い詰められて、立ち上がった戦いだったが、何百年にもわたって西洋の植民地支配のもとにあったアジアを解放したのだった。開戦三年後の大東亜宣言の原案は、重光外相と私が苦心して書いたものだった。  あの降伏調印式の日にそのようなことは互いにいわなかったが、世界史的な戦いが終わって、日本は人類史によって与えられた役割を果たしたという矜持が、胸のなかにあった。負けたのは事実であっても、精神的にはけっして負けていなかったのだ。そういう意地があった。」(82頁) 「わが国では、戦後、この大東亜共同宣言をもっぱら軍部が占領地域を搾取する煙幕に利用したように解釈しがちだが、真意は日本の戦争目的を宣明するにあった。 いずれにせよ、日本の先の戦争を戦ったために独立したアジア諸国は、今日なお大東亜共同宣言を深く多としている。アジアだけではなく、アフリカの諸民族まで、日本が提唱した植民地解放運動に心から感謝していたことは、私が1955年(昭和30年)にインドネシアのバンドンで催されたアジア・アフリカ(AA)会議に、日本政府代表として出席した時や、初代国連大使として国連にあった時に、親しく感得した。  大東亜共同宣言が日本で軽視され、アジア、アフリカにおいて高く評価されているのは、皮肉である。」(105頁)
◆独立のタネをまく
日本の戦争だけでアジア、アフリカ諸国が独立したのではもちろんない。たとえば、インドネシアは戦後、オランダ軍を相手に激しい独立戦争を戦い、80万人もの犠牲を払って独立を勝ち取った。その戦いに1千人から2千人もの残留日本兵が加わったが、独立戦争の主体はインドネシア人である。 インドネシア独立のために戦う母体となったのは、戦時中に日本が育成した祖国(郷土)防衛義勇軍(PETA、3万8千人)などの青年たちだった。愚民化政策をとったオランダとは異なり、戦時中の日本は官吏育成学校、医科大学、師範学校(教員養成学校)、商業学校などを設けて、国づくりに欠かせない人材を教育していたのである。 世の中の出来事は、多面性があることなど、大人なら誰でも知っていることだ。まして、一国の歴史ともなればなおさらだ。日本では、戦前や戦中の自国の歩みについて否定的にばかりみる言説が、今も満ちあふれている。戦後70年も経ったのに、あまりに公平さを欠いている。 インターネットによって、このような状況は是正されつつあるが、ネットや——恐縮だが——産経新聞などに触れることなく、日本ばかりが悪かったという史観ではない見方があることに気づかない世代、人々はなお多い。 有識者懇の面々は、知識も経験も十分な人々のはずだ。にもかかわらず、日本と「アジアの解放」の関係について、大東亜会議、宣言などを顧みなかったのだろうか。報告書が「国策として日本がアジア解放のために戦ったと主張することは正確ではない」としたのは理解に苦しむところだ。 大東亜戦争をめぐって、日本の戦いの目的や日本人が抱いた理想と「アジアの解放」を関連づけて考察することは、戦争を美化する話では決してない。戦争とは多くの人々が犠牲になる悲劇であることは間違いない。 それでも、戦争を含め一国の歩みにはさまざまな意味合いがある。「有識者」が振り返るというなら、大きな歴史的事実を踏まえることが必要ではないのだろうか。

榊原智(産経新聞 論説委員)